男は窓に溢れる光をずっと見つめていた。
目の奥が痛み出し、瞼が自然と下がってくる。それでも彼は瞳を光に晒し続けた。
ともすれば心地よい午睡に身を任せてしまいそうになる。
深紅のソファに無造作に身を投げ出し、上質な生地のガウンからは白く細長い手足が伸びている。
片手に銀製の酒杯を持っていたが、それを持つことも億劫といった感じで今にも手から落ちそうだった。
中身は既に干されており、底に残った滓だけが床に小さな水たまりを作っている。
「民意、というやつですよ」
装飾が凝らされた暖炉の傍で誰かが言った。
「いや、世界の総意といってもいい」
誰だ、お前は。
「誰、とは?」
お前は、誰だ?
暖炉の傍に立った男は喉の奥から忍び笑いを漏らした。
「これはこれは……不思議なことをおっしゃられる。それとも明るいうちから聞こし召されたせいかな?」
私は酔っていない。お前は誰だ?
「おや、意地悪なことを……わたくしめをお忘れですか?」
知らない。
「こんなにも近くに、こんなにも途切れることなく、あなたにお仕えしてきたわたくしめをお忘れですか?」
知らない。
「なんと嘆かわしい!」
男は芝居がかった仕草で手を額に当てると、部屋を横切って彼のソファへ近付き片膝を乗せた。
「ネズミですよ。王様」
吐息が感じられるほどに顔を近付け男は言った。
男の細い銀色の髪が額を撫でる。
彼はそれを払うこともなく、視線だけを男の瞳に移した。
濃紺の、宵闇の、玉石。
「わたくしめは卑しいネズミです。おわかりになりませんか」
知らない。お前など、見たこともない。
男はその言葉を受けるとソファから離れ、正面にあった姿見の鏡を持ち出した。
「ずっと見ていたではないですか」
鏡には痩身の男が映っている。
長く真っ直ぐな黒髪は傷み、顔は蝋のように白い。
切れ長の目には濁りきった瞳が虚ろに泳ぎ、長時間の飲酒で唇の皮がところどころめくれていた。
おわかりになりましたか?わたくしはあなたで、あなたはわたくしです。
やがて重厚な造りの扉が開き、禍々しい黒さに身を包んだ影が滑るように入ってきた。
視線を動かす気力もないまま、彼は訪れるであろう永遠の闇に身を任せた。
全ての音は消え、全ての光は失せ、全ての時は止まった。
† †
アルキール大陸には東西を横断する道がある。
『大陸の血流』『砂霧の道』『大行路』などいくつもの呼び名があるが、公的な文書には『ヴィラージュ街道』と記されることが多い。
大陸東端にあるリキュア港から延々と続くこの道は行商や巡礼者が往来する、世界でも一、二を争う大規模な街道だ。
大陸が発見される前から先住民たちによって切り拓かれていた道は遊牧のためだけではなく、様々な人種の移動や商業の発達を経て、国や街、寺院が隣接する街道としての役割を得た。
今日のアルキール大陸に存在する国々の繁栄や連携はこの街道から発展したと言っても過言ではない。
しかし、年老いた人々は時折この街道に畏怖と忌避を込めてこう呼ぶ。
『血の染み込んだ道』と。
大陸に存在する国家が和平を前提とした条約を結んでからいくつもの季節が過ぎた。
人の子や獣は老いて新たな世代へ意思を託し、風は数えきれないほどの砂と種を運ぶ。
厳しくも優しく、原初の意思を保つ輪廻は人々が集まって国といった概念を創り上げる前から繰り返されてきた。
そのなかにあって異質なものがある。思想だ。
それはまるで悪い疫病のように、人の、世界の歴史に音もなく近付いては蹂躙していく。
かつてヴィラージュ街道沿いに、エルポート王国という国家が存在した。
世襲制の王政国家で、人口は千人程度の小国。
他の大陸から移住してきたカルベネ人が中心となって造り上げた国で、大陸東部のほとんどを占めるクワス帝国と数十の小国が集うウィーネ諸国の境目に位置していた。
国の場所柄、商業、信仰、人種の仲介として重要な役割を果たしていたエルポート王国は王政でありつつも主要諸国の代表者が常駐して国家間の、特に経済的な取り決めを指揮する集合体が設置されていたため、他国よりも優れた警備体制がしかれ、エルポートの王族に連なる者は仲介者として厳しい教育が施されていた。
しかし、中立した国家として万全を期したこの場所で暗殺事件が起こった。
第一王位継承者であるヴォーヌ・エル・ラターシュが自室で喉を掻き切られていたのだ。
この事件を発端にして、各国は疑心暗鬼に陥った。
鉄壁と言われた城塞内で起きた事件であったため他国の内通者がいるのではないかといった意見や、権力を自国のために濫用せんとする自作自演ではないかといった意見が飛び交った。
疑いは欺瞞を、諍いは過去の軋轢を呼ぶ。
事態を収拾せんとしてアルキール大陸内部はもとより、輸出入で関係の深かった国々までもが海を越えて加わり凄惨な争いが始まった。
繁栄の象徴であったはずのヴィラージュ街道で、人々は破滅への歩を進ませたのだ。
戦いは大きく二つの勢力に分かれた。
ひとつは大国クワスを含めた革新派で、エルポート王国における仲介の専任に反対して新たな体制を求めるもの。
もうひとつはエルポート王国と友好関係にあった国々やクワス帝国の強大さから独裁を危惧する国々が集まった保守派である。
ところが、長い戦いのなかで戦乱の理由は変化していった。互いの疑心を払い、思想の正当性や正義を証明する戦いは人種間や信仰心の違いから現れる排他的心理へと形を変えていく。
積み上げた自滅の道具や方法と同族の遺骸のなかで、降りることの許されない負の連鎖のなかで人々の心は疲弊していった。
やがて、戦況は決定的な局面を迎えた。
エルポート王国で当時采配を振るっていたある王族が自害した。
王国は戦争が始まってからも仲介者としての立場を崩すことなく、穏健派であったウィーネ諸国の一部勢力以外に対して四面楚歌の状態であった。革新派と保守派の紙一重の攻防のなかで、王族最後の生き残りが自害したことにより、穏健派とエルポート王国に疑いをかけつつも旧体制の維持を目指していた保守派の国々は浮足立った。
かくしてこの戦いは革新派であった国々が大陸の主導権を分散するというかたちで終わりを告げた。
誰かが悪者にならなければ収まらないところまできてしまった。
自害の状況については詳しくわかっていないが、後の歴史学者や旧エルポート王国から亡命した官吏の一部は人目を憚ってそう囁き合った。
エルポート王国は滅し、自害した王族も名を語られぬまま歴史の闇へと消え去った。残っていた王族がどうなったのか、聞くに耐えない扱いを受けて死んだとも、今もまだ遠い土地で息を潜めて生きているとも言われているが、どれも噂の域を出ない情報だった。
そして現在。
種は蒔かなければ、種のまま。
とある聖人の格言を思い浮かべながら、キールは瓶の底に残ったエールの滓をひといきにあおった。
空になった瓶を振ってバーテンのレフに合図をする。
彼はグラス磨きを中断すると、カウンターのなかを滑るような足取りで動き新しい瓶を持ってきた。
「いい飲みっぷりだね。儲かったのかい?」
あからさまな皮肉にキールは顔をしかめ、銅貨を投げるように彼へ渡した。
油の切れかけているランプで照らされた店内は薄暗く、客たちの話し声は折り重なって潮騒のように漂っている。
「お陰さまでね。あんたんとこほどじゃないけど」
けたたましい笑い声が聞こえたのでそちらを振り向くと、割と小奇麗な格好をした男が女娼らしき女の腰に手を回していた。女は艶っぽい笑みを浮かべて男の手を軽く抓った。
「そんな顔してりゃ、くるはずのもんもきやしないよ」
レフは肩をすくめてキールの前から立ち去った。
キールは面白くなさそうに鼻を鳴らすと自身の頬に手を当てた。
確かに、このところ自分は陰気な表情ばかりしている。
ヴィラージュ街道の流通経路がまだ『旧体制』であった頃からの大店(おおだな)で、妾の子として産まれたキールは幼い頃に父の愛人であった母を亡くし、底意地の悪い本妻とその子供らから逃げるようにして家を出た挙句、盗賊に身をやつした。
いつかは自分の店を持ってやる。
悪事に手を染めながらも無意識では父や継母を見返してやりたい気持ちがあったのだろう。
盗賊が商人になるという冗談みたいな夢は、掃き溜めを流れ続けて辿り着いた街で現実のものとなった。
ここはウィーネ諸国に属する自治国マルベック。
ヴィラージュ街道を往来する人々の宿場町として興った小国家である。
マルベックで必要なのは育ちや家柄じゃない。
金だ。
しかるべき場所へしかるべき金を払えば商売ができるし、政治にだって参加できる。裏返せば、金なしにはこの街で生きていくことは難しい。
商業ギルドと表向きは女衒(ぜげん)の管理協会である盗賊ギルド。
キールは商人兼盗賊としてこの街で生きるために売上の何割かを双方へ納めている。
つまり彼が生きるも死ぬもギルド次第なのだ。
そのギルドが管理費をつり上げ始めた。
彼だけではなく、マルベック全体として、いや、ウィーネ諸国全体にその動きが現れたのだ。
大陸一のでかい黒羊を食わせている。
人々はクワス帝国を揶揄して言い合った。黒羊とは放蕩息子を意味し、実際のクワス帝国は大きな領土と強固な軍事力を持ちながら、痩せた土地と北部での悪天候が続き自給率が逼迫していた。
大昔にあった戦争からクワス帝国は実質的に大陸の支配者となり、なにか起きれば和平や商業対策と銘打って他国から金を巻き上げていく。
だがそれは仕方のないことでキール個人としては国がどうこう、政治体制がどうこうよりも一国一城の主として店を守らなければならない。
気ままな独身者であるキールにとって、盗賊としての勤めを行うことも決してやぶさかではない。
しかし、勤めができなくなったときに帰る場所は必要だ。
盗賊ギルドで幹部になる道もあるが、それなりの金が必要であり、金を得るには大きな危険も伴う。
どうにかして店の経営をやりくりしようと考えてはいるものの、途中でどうにも頭が働かなくなり古ぼけた安酒場に連日入り浸っているという有様だった。
「こっちの景気まで悪くなりそうだよ」
大きなため息をつくとレフが呆れ顔で乾燥させた果物や木の実を盛った小皿をキールの前に置いた。
「なんだよ」
「食い物だよ」
「見りゃわかるよ。頼んでないし、頼むほど金に余裕はないぞ」
「やるよ。酒ばっか飲んでりゃ頭も鈍る。それやるから背中にしょった貧乏神を連れて、自分の仕事をするんだね」
レフはそう言ってグラス磨きに戻った。きっと自分の行動が恥ずかしくなったのだろう。
「……ありがとよ」
レフはキールと同じ方法で酒場を開いた。
彼がまだ駆け出しの頃からなにかと気にかけてくれ、ともに仕事をしたこともある仲だった。
「言っておくけれど、あたしんところも納める金はつり上げられてる。それに……ここだけの話だけど、近いうちに『査察』がくるって話だから、冬に向けて貯えとかないとね」
キールは口に入れた果物の甘味が苦味に変わっていくような気がした。
「ふざけやがって。また『神の名において』ってやつか」
「声がでかいよ」
レフはキールの感情的な声に眉をひそめた。
査察というのはレフのように酒を売ったり、歓楽街での仕事を生業にしている者たちが使う隠語で、神官たちが夜警として街を練り歩くことだった。
アルキール大陸では多種多様な神々が信仰されているが、そのなかでもある程度の規模と力を持つものは装飾を凝らした神殿や寺院を築き、そこに属する神官や僧兵を組織しており、国や街の医療機関、福祉施設、自衛手段といった側面を担っていた。
良くも悪くも金に重きを置くマルベックでは、彼らの存在は煙たがれる一方であり、偽善の象徴とさえ言われていた。
神を信仰する者のみが扱う奇跡として治癒や解呪といった現象があるらしいが、実際に目にしたことのないキールにしてみれば、それは薬師に任せるものであった。
それに……
「神にすがってどうにかなることなんて、ありゃしないんだよ」
キールは吐き捨てるように言った。
「どうにも、あんたはこの手の話になると落ち着かないね」
レフの言葉には応えず、キールは指先で器用に木の実の殻を剥いて口に運んだ。
「……それにしても頻繁すぎないか?」
「さあね。近頃子供の失踪が増えているから、そのせいなんじゃないかな」
客に呼ばれると「他言無用だよ」とレフは言い置いてその場から離れた。
レフにもらったつまみを食べて酒を干してしまうと、キールはいそがしくなった彼に目だけで礼を言い、店を出た。
レフの言うとおり、酒ばかり飲み耽っていても進展はない。キールは意を決したように息をつくと人気のない路へと歩いて行った。
【neme】 幻実
【about】 なんか書いてるよ、このひと
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