男は窓に溢れる光をずっと見つめていた。
目の奥が痛み出し、瞼が自然と下がってくる。それでも彼は瞳を光に晒し続けた。
ともすれば心地よい午睡に身を任せてしまいそうになる。
深紅のソファに無造作に身を投げ出し、上質な生地のガウンからは白く細長い手足が伸びている。
片手に銀製の酒杯を持っていたが、それを持つことも億劫といった感じで今にも手から落ちそうだった。
中身は既に干されており、底に残った滓だけが床に小さな水たまりを作っている。
「民意、というやつですよ」
装飾が凝らされた暖炉の傍で誰かが言った。
「いや、世界の総意といってもいい」
誰だ、お前は。
「誰、とは?」
お前は、誰だ?
暖炉の傍に立った男は喉の奥から忍び笑いを漏らした。
「これはこれは……不思議なことをおっしゃられる。それとも明るいうちから聞こし召されたせいかな?」
私は酔っていない。お前は誰だ?
「おや、意地悪なことを……わたくしめをお忘れですか?」
知らない。
「こんなにも近くに、こんなにも途切れることなく、あなたにお仕えしてきたわたくしめをお忘れですか?」
知らない。
「なんと嘆かわしい!」
男は芝居がかった仕草で手を額に当てると、部屋を横切って彼のソファへ近付き片膝を乗せた。
「ネズミですよ。王様」
吐息が感じられるほどに顔を近付け男は言った。
男の細い銀色の髪が額を撫でる。
彼はそれを払うこともなく、視線だけを男の瞳に移した。
濃紺の、宵闇の、玉石。
「わたくしめは卑しいネズミです。おわかりになりませんか」
知らない。お前など、見たこともない。
男はその言葉を受けるとソファから離れ、正面にあった姿見の鏡を持ち出した。
「ずっと見ていたではないですか」
鏡には痩身の男が映っている。
長く真っ直ぐな黒髪は傷み、顔は蝋のように白い。
切れ長の目には濁りきった瞳が虚ろに泳ぎ、長時間の飲酒で唇の皮がところどころめくれていた。
おわかりになりましたか?わたくしはあなたで、あなたはわたくしです。
やがて重厚な造りの扉が開き、禍々しい黒さに身を包んだ影が滑るように入ってきた。
視線を動かす気力もないまま、彼は訪れるであろう永遠の闇に身を任せた。
全ての音は消え、全ての光は失せ、全ての時は止まった。
† †
アルキール大陸には東西を横断する道がある。
『大陸の血流』『砂霧の道』『大行路』などいくつもの呼び名があるが、公的な文書には『ヴィラージュ街道』と記されることが多い。
大陸東端にあるリキュア港から延々と続くこの道は行商や巡礼者が往来する、世界でも一、二を争う大規模な街道だ。
大陸が発見される前から先住民たちによって切り拓かれていた道は遊牧のためだけではなく、様々な人種の移動や商業の発達を経て、国や街、寺院が隣接する街道としての役割を得た。
今日のアルキール大陸に存在する国々の繁栄や連携はこの街道から発展したと言っても過言ではない。
しかし、年老いた人々は時折この街道に畏怖と忌避を込めてこう呼ぶ。
『血の染み込んだ道』と。
大陸に存在する国家が和平を前提とした条約を結んでからいくつもの季節が過ぎた。
人の子や獣は老いて新たな世代へ意思を託し、風は数えきれないほどの砂と種を運ぶ。
厳しくも優しく、原初の意思を保つ輪廻は人々が集まって国といった概念を創り上げる前から繰り返されてきた。
そのなかにあって異質なものがある。思想だ。
それはまるで悪い疫病のように、人の、世界の歴史に音もなく近付いては蹂躙していく。
かつてヴィラージュ街道沿いに、エルポート王国という国家が存在した。
世襲制の王政国家で、人口は千人程度の小国。
他の大陸から移住してきたカルベネ人が中心となって造り上げた国で、大陸東部のほとんどを占めるクワス帝国と数十の小国が集うウィーネ諸国の境目に位置していた。
国の場所柄、商業、信仰、人種の仲介として重要な役割を果たしていたエルポート王国は王政でありつつも主要諸国の代表者が常駐して国家間の、特に経済的な取り決めを指揮する集合体が設置されていたため、他国よりも優れた警備体制がしかれ、エルポートの王族に連なる者は仲介者として厳しい教育が施されていた。
しかし、中立した国家として万全を期したこの場所で暗殺事件が起こった。
第一王位継承者であるヴォーヌ・エル・ラターシュが自室で喉を掻き切られていたのだ。
この事件を発端にして、各国は疑心暗鬼に陥った。
鉄壁と言われた城塞内で起きた事件であったため他国の内通者がいるのではないかといった意見や、権力を自国のために濫用せんとする自作自演ではないかといった意見が飛び交った。
疑いは欺瞞を、諍いは過去の軋轢を呼ぶ。
事態を収拾せんとしてアルキール大陸内部はもとより、輸出入で関係の深かった国々までもが海を越えて加わり凄惨な争いが始まった。
繁栄の象徴であったはずのヴィラージュ街道で、人々は破滅への歩を進ませたのだ。
戦いは大きく二つの勢力に分かれた。
ひとつは大国クワスを含めた革新派で、エルポート王国における仲介の専任に反対して新たな体制を求めるもの。
もうひとつはエルポート王国と友好関係にあった国々やクワス帝国の強大さから独裁を危惧する国々が集まった保守派である。
ところが、長い戦いのなかで戦乱の理由は変化していった。互いの疑心を払い、思想の正当性や正義を証明する戦いは人種間や信仰心の違いから現れる排他的心理へと形を変えていく。
積み上げた自滅の道具や方法と同族の遺骸のなかで、降りることの許されない負の連鎖のなかで人々の心は疲弊していった。
やがて、戦況は決定的な局面を迎えた。
エルポート王国で当時采配を振るっていたある王族が自害した。
王国は戦争が始まってからも仲介者としての立場を崩すことなく、穏健派であったウィーネ諸国の一部勢力以外に対して四面楚歌の状態であった。革新派と保守派の紙一重の攻防のなかで、王族最後の生き残りが自害したことにより、穏健派とエルポート王国に疑いをかけつつも旧体制の維持を目指していた保守派の国々は浮足立った。
かくしてこの戦いは革新派であった国々が大陸の主導権を分散するというかたちで終わりを告げた。
誰かが悪者にならなければ収まらないところまできてしまった。
自害の状況については詳しくわかっていないが、後の歴史学者や旧エルポート王国から亡命した官吏の一部は人目を憚ってそう囁き合った。
エルポート王国は滅し、自害した王族も名を語られぬまま歴史の闇へと消え去った。残っていた王族がどうなったのか、聞くに耐えない扱いを受けて死んだとも、今もまだ遠い土地で息を潜めて生きているとも言われているが、どれも噂の域を出ない情報だった。
そして現在。
種は蒔かなければ、種のまま。
とある聖人の格言を思い浮かべながら、キールは瓶の底に残ったエールの滓をひといきにあおった。
空になった瓶を振ってバーテンのレフに合図をする。
彼はグラス磨きを中断すると、カウンターのなかを滑るような足取りで動き新しい瓶を持ってきた。
「いい飲みっぷりだね。儲かったのかい?」
あからさまな皮肉にキールは顔をしかめ、銅貨を投げるように彼へ渡した。
油の切れかけているランプで照らされた店内は薄暗く、客たちの話し声は折り重なって潮騒のように漂っている。
「お陰さまでね。あんたんとこほどじゃないけど」
けたたましい笑い声が聞こえたのでそちらを振り向くと、割と小奇麗な格好をした男が女娼らしき女の腰に手を回していた。女は艶っぽい笑みを浮かべて男の手を軽く抓った。
「そんな顔してりゃ、くるはずのもんもきやしないよ」
レフは肩をすくめてキールの前から立ち去った。
キールは面白くなさそうに鼻を鳴らすと自身の頬に手を当てた。
確かに、このところ自分は陰気な表情ばかりしている。
ヴィラージュ街道の流通経路がまだ『旧体制』であった頃からの大店(おおだな)で、妾の子として産まれたキールは幼い頃に父の愛人であった母を亡くし、底意地の悪い本妻とその子供らから逃げるようにして家を出た挙句、盗賊に身をやつした。
いつかは自分の店を持ってやる。
悪事に手を染めながらも無意識では父や継母を見返してやりたい気持ちがあったのだろう。
盗賊が商人になるという冗談みたいな夢は、掃き溜めを流れ続けて辿り着いた街で現実のものとなった。
ここはウィーネ諸国に属する自治国マルベック。
ヴィラージュ街道を往来する人々の宿場町として興った小国家である。
マルベックで必要なのは育ちや家柄じゃない。
金だ。
しかるべき場所へしかるべき金を払えば商売ができるし、政治にだって参加できる。裏返せば、金なしにはこの街で生きていくことは難しい。
商業ギルドと表向きは女衒(ぜげん)の管理協会である盗賊ギルド。
キールは商人兼盗賊としてこの街で生きるために売上の何割かを双方へ納めている。
つまり彼が生きるも死ぬもギルド次第なのだ。
そのギルドが管理費をつり上げ始めた。
彼だけではなく、マルベック全体として、いや、ウィーネ諸国全体にその動きが現れたのだ。
大陸一のでかい黒羊を食わせている。
人々はクワス帝国を揶揄して言い合った。黒羊とは放蕩息子を意味し、実際のクワス帝国は大きな領土と強固な軍事力を持ちながら、痩せた土地と北部での悪天候が続き自給率が逼迫していた。
大昔にあった戦争からクワス帝国は実質的に大陸の支配者となり、なにか起きれば和平や商業対策と銘打って他国から金を巻き上げていく。
だがそれは仕方のないことでキール個人としては国がどうこう、政治体制がどうこうよりも一国一城の主として店を守らなければならない。
気ままな独身者であるキールにとって、盗賊としての勤めを行うことも決してやぶさかではない。
しかし、勤めができなくなったときに帰る場所は必要だ。
盗賊ギルドで幹部になる道もあるが、それなりの金が必要であり、金を得るには大きな危険も伴う。
どうにかして店の経営をやりくりしようと考えてはいるものの、途中でどうにも頭が働かなくなり古ぼけた安酒場に連日入り浸っているという有様だった。
「こっちの景気まで悪くなりそうだよ」
大きなため息をつくとレフが呆れ顔で乾燥させた果物や木の実を盛った小皿をキールの前に置いた。
「なんだよ」
「食い物だよ」
「見りゃわかるよ。頼んでないし、頼むほど金に余裕はないぞ」
「やるよ。酒ばっか飲んでりゃ頭も鈍る。それやるから背中にしょった貧乏神を連れて、自分の仕事をするんだね」
レフはそう言ってグラス磨きに戻った。きっと自分の行動が恥ずかしくなったのだろう。
「……ありがとよ」
レフはキールと同じ方法で酒場を開いた。
彼がまだ駆け出しの頃からなにかと気にかけてくれ、ともに仕事をしたこともある仲だった。
「言っておくけれど、あたしんところも納める金はつり上げられてる。それに……ここだけの話だけど、近いうちに『査察』がくるって話だから、冬に向けて貯えとかないとね」
キールは口に入れた果物の甘味が苦味に変わっていくような気がした。
「ふざけやがって。また『神の名において』ってやつか」
「声がでかいよ」
レフはキールの感情的な声に眉をひそめた。
査察というのはレフのように酒を売ったり、歓楽街での仕事を生業にしている者たちが使う隠語で、神官たちが夜警として街を練り歩くことだった。
アルキール大陸では多種多様な神々が信仰されているが、そのなかでもある程度の規模と力を持つものは装飾を凝らした神殿や寺院を築き、そこに属する神官や僧兵を組織しており、国や街の医療機関、福祉施設、自衛手段といった側面を担っていた。
良くも悪くも金に重きを置くマルベックでは、彼らの存在は煙たがれる一方であり、偽善の象徴とさえ言われていた。
神を信仰する者のみが扱う奇跡として治癒や解呪といった現象があるらしいが、実際に目にしたことのないキールにしてみれば、それは薬師に任せるものであった。
それに……
「神にすがってどうにかなることなんて、ありゃしないんだよ」
キールは吐き捨てるように言った。
「どうにも、あんたはこの手の話になると落ち着かないね」
レフの言葉には応えず、キールは指先で器用に木の実の殻を剥いて口に運んだ。
「……それにしても頻繁すぎないか?」
「さあね。近頃子供の失踪が増えているから、そのせいなんじゃないかな」
客に呼ばれると「他言無用だよ」とレフは言い置いてその場から離れた。
レフにもらったつまみを食べて酒を干してしまうと、キールはいそがしくなった彼に目だけで礼を言い、店を出た。
レフの言うとおり、酒ばかり飲み耽っていても進展はない。キールは意を決したように息をつくと人気のない路へと歩いて行った。
キールの目指す家屋はいわゆる『貧民窟』と呼ばれる一画にあった。
さびれた建物が建ち並ぶなかにあって、周囲から際立って不気味な空気を放っている。
そう感じるのは家主の人柄をよく知る彼だけかもしれない。
ドアをノックすると、湿気をたっぷりと吸い込んだ木製のドアは歯切れの悪い音をたてた。
「……はぁ」
予想通り、返事はない。
しかし、彼はあきらめずにドアをノックし続けた。
そのうちノックの音に反応して、隣家の壁から子供が顔を覗かせた。
顔は垢で黒ずみ、薄茶色の髪はぼさぼさに乱れていた。
彼、あるいは彼女はなにかを期待するような目でキールを見上げていた。
そのくせ、怯えているようで壁の陰から動こうとはしない。
「早く出ろよ」
キールはここで会う貧しい身なりをした子供たちがどうにも苦手だった。
自分の意思をはっきりと示す気もないくせに、ただ救いを求めているような感じが、幼い頃の自分を見ているみたいで身体がむず痒くなる。
自然とノックする腕にも力がこもる。
子供は大きくなったノックの音に身体をびくつかせながらも、その場から動こうとはしなかった。
こりゃ、本当に留守か。
あきらめかけたとき、子供が壁からおどおどと姿を現し、キールの傍へやってきた。
キールは視界の端に入った子供に気付かないようにしていたが、なにか言いたげにしているのを感じて仕方なく視線を動かした。
六歳前後の子供はローブと呼ぶには戸惑うような布を身体に巻き付けており、靴は履いていなかった。
大きな瞳は木の実を連想させ、その姿とはうらはらに生気が溢れている。
それなりの恰好をさせたら、小憎らしい中産階級の子供たちよりは愛嬌があるかもしれない。
そんなことを考えていると。
「いえ、ひと……いない」
子供は別の大陸からやってきた巡礼者のように、おぼつかない言葉で話した。
キールはしばらく黙って子供を見下ろしてからしゃがみ込んで、視線の高さを合わせた。
「留守ってことか?」
子供はキールの唇の動きをまねて、「る、す」と言葉を発してみたが意味がわからないようだった。
「えーと……」
キールは頭を掻き毟りながら、どう説明するべきかを考えた。
子供はきょとん、と彼を見つめるばかりで家主のことを聞き出すのは難しそうだった。
「りんご、りんご」
子供はキールへなにかを伝えたいらしく、果物の名前を連呼し始めた。
「……悪いけど、食い物は持ってねぇよ」
子供が物乞いを始めたと思った途端、キールは一瞬哀しそうな顔を見せたが、それまでの親密な空気を振り払って立ち上がった。
気まぐれな優しさがどれだけ残酷なことか、彼は知っていた。
手を振って自分から離れるよう促す。
しかし子供は相変わらず「りんご」と連呼するばかりだった。
その様子はどこか、伝えたいことを伝えられない状況にじれているようであったが、キールにはそんな風に感じられなかった。
「……あのなぁ」
ため息交じりにキールが子供を追い払おうとしたそのとき。
「なにしてる」
背後から声をかけられた。
振り向くと深緑のローブを身にまとい、りんごが山盛りに入った籠を盛った男がそこにいた。
「りんご、きた。りんご、きた」
「すぐ戻るから外に出るなと言っただろう」
キールにまとわり付いていた子供は男を見ると嬉しそうに駆け寄っていく。
「俺はりんごじゃない。まったく、何度教えたらわかるんだ」
ぶつぶつと文句を言いながらも男はローブの裾をひっつかむ子供にかまわず、キールの前を通り過ぎた。
「お、おい」
軋んだ音をたててドアが開き、男が子供と一緒に家のなかへ入ろうとしたので、キールは慌てて二人の後に続いた。
家のなかは雑然としており、大の男が二人も入れば窮屈なことこの上なかった。
床には儀式用の象徴やキールには読めない言語で書かれた紙が散乱しており、棚や壁には大量の本が溢れ返ったように積み重ねられていた。
そのなかに机や椅子などの家具が埋もれるように見え隠れしている。
男はりんごの入った籠を机の上におくと、本の海から粗末な造りの椅子を引っ張り出してキールにすすめ、子供にはりんごをひとつ放ってやった。
子供はりんごを受け取ると宝物でも抱えるようにして小躍りし、普段男が使っているらしい椅子にちょこん、と腰掛けてそれを齧った。
「で、どうした?」
男はその光景を唖然と見つめるキールに向かって話しかけた。
「え?」
「仕事の話じゃないのか」
「え、あ、ああ、そうそう」
偏屈で通っている男が子供に懐かれている、という事実に驚くあまりキールは本来の目的を忘れていた。
男の名はシノン。
マルベックでは『路地裏の万屋』と綽名されている魔術師であり、キールが一方的に相棒と称している仕事仲間であった。
マルベックや国としての機能が整っている場所では、魔術師はすべからく各国の魔術師ギルドに登録して『探知』と『追跡』の呪符を付与される。
魔法が悪用されないよう規制をかけるための手段であり、他の国家でも似たような施策が行われている。
そのため個人で活動する魔術師は非常時以外、使用できる能力が限られており、危険な魔術の代理行使や限定解除を自費でギルドに依頼することになる。
しかし、特定の魔法が使用できない、という理由でシノンは規制から免除されていた。
協調性がないためギルドや国家からはじかれ、生きるための狡猾さがないため上流階級の教育係として活躍できそうにない彼が『路地裏の万屋』という、あまりありがたくない二つ名を得るまでになったのは、規制免除されているからこそできる破格の報酬によるものであった。
気軽に厄介事を持ち込めるという噂がたち、彼の所には盗賊、ごろつき、その他大手を振って表通りを歩けないような連中が集まっては、眉唾ものの遺物や薬の目利きから失せ物に至るまで、多種多様な依頼をしにきた。
そして彼はそれらを淡々とこなし続けた。
結果シノンの名は盗賊ギルドの長にまで知られ、街の日陰からは歓迎されたが、魔術師ギルドからは『品性を貶めている』などと言われ厄介者になっていた。
「仕事というかだな……相談に乗って欲しいのだが」
キールは言いにくそうにシノンの顔を見た。
「黒羊の食いぶちか」
「どうしてそれを……」
「俺もとばっちりだ」
驚くキールの鼻先にシノンは一枚の紙を突き出した。
そこにはマルベック魔術師ギルドの刻印が押され、細々とした文字が並んでいた。
「なんだよ、こりゃ」
「上から三行目までを読んでみろ」
「なになに……」
『右の者は魔術師として、魔術の行使、呪詛の詠唱、その他魔術に関わる儀式および象徴の使用を行う場合、別途記した状況を除いて、これらを協会の許可なく行使することを禁ずるものとする』
「って……これ」
「読んだ通りだ。今までと同じ値段じゃ仕事はできん」
絶句するキールに向かってシノンは冷たく言い放った。
「なんてこった……」
キールは頭を抱えた。
部屋のなかには子供がりんごを咀嚼する音だけが虚しく響いている。
「これは俺たち貧乏人を貶めるための陰謀だ」
うわごとのように呻くキールの言葉には応えず、シノンは椅子に座っている子供を抱くと自分は椅子に座り、膝の上に子供を乗せた。
子供はきゃっきゃっと嬉しそうに彼の膝の上で身を捩った。
「国は『神の名を語る』バカどもと共謀して、俺たちを破滅させる気だ」
「……黒羊以外に神殿もなにか関わっているのか?」
「レフからのご厚意だよ。『査察』があるんだと」
「財政的に厳しい今、どうしてだ」
これまでもクワス帝国の管理費つり上げは幾度となく行われてきた。
その度にヴィラージュ街道と関係する国々は、財政対策として商業に関連する動きを活発化させ、倫理を重んじる宗教団体の活動を弾圧と捉えられない程度に拒否、あるいは腐敗が進んだところになればたきつけるようなことさえしてきた。
キールが普段以上にマルベックに存在する神殿に対して苛立ったのは、間の悪さにも起因していた。
「子供が失踪してる事件と関係あるかもしれないってさ」
シノンは理由を聞くと鼻で笑った。
「……その子はどうしたんだよ?」
キールはシノンの反応を見て、先ほどから気になっていた疑問を投げかけた。
「『査察』の理由が子供ならお笑い草だ。今朝から家の前に居付いてしまってな。失踪している子供かと思って神殿まで届けたんだが、いそがしくて引き取れないのから明日まで預かれだと」
「おいおい」
キールは呆れて肩をすくめた。
「それにしても、意外だな。お前が神殿に行くなんて」
「子供に……罪はないからな」
「そうだな」
子供はりんごを食べ終えると口元をべたべたにしながら、シノンの膝から降りて部屋のなかを動き回った。
「俺さ、思うんだけどさ」
キールはなにか名案でも思いついたように語り始めた。
「神殿が『査察』に出るための金をさ、子供が産まれた家とかに分けてやりゃいいんじゃねぇか?そうすりゃ、この子みたいに本末転倒ってことにはならないだろ」
「どうだろうな」
キールは拍子抜けしたらしく、間の抜けた顔でシノンの言葉を待った。
「そんなことをすればこの国の連中は犬猫のように子を孕んでは金をもらって捨てるだろうな」
「あ……」
「そして路頭に迷った子供を保護し、倫理を守るため神殿へ金が集まる。確かに神殿には子供が預けられるだろうが、そもそもの解決にはならん」
シノンの言葉は正論過ぎた。
それは彼よりも長くこの国で生きているキールであれば、痛いほどにわかる。
金さえあれば、という問題ではない。
金である程度のことを解決できてしまうこの国、この世界だからこそ、人々は生命と金を天秤にかけてしまう。
子供ははしゃいで眠くなったのか、目を擦ってシノンのローブを引っ張った。
シノンは懐から出した布で顔を拭いてやり、「そこで寝るんだ」と本に囲まれたベッドを指差して子供の背中を優しく押した。
子供はシノンのベッドに潜り込むと、程なくして安らかな寝息をたて始めた。
起死回生の策を見出すはずが、かえって逃げ場を失くしてしまい、キールはうんざりしていた。
シノンは早速、ギルドから渡された紙きれに筆を走らせている。
そろそろ帰ろう、とキールが立ち上がったとき。
夜の静寂を引き裂くような悲鳴が聞こえた。
「おい」
「ああ」
キールに促され、シノンは筆を置いた。
二人は『貧民窟』から大通りへ出て、我先にと道を行く野次馬の流れに加わった。
人々はさっきまでキールが入り浸っていたレフの酒場や、軽食を出す店が軒を連ねる『マクロゥ通り』に向かっていた。
野次馬に混じって帯剣した男たちや純白の衣に身を包んだ者たちが走っている。
マルベックの自警団と話題に出た神殿関係者たちだった。
現場には既に何人かの自警団員と神殿関係者がいて、神官騎士らしい武装をした若い女が大声を張り上げながら人払いをしていた。
「ごめんよ」
キールは人ごみに辟易しているシノンを残して、やや強引に人垣へ身を滑り込ませた。
石造りのタイルが敷き詰められた通りに、男がひとり倒れていた。
マクロゥ通りの入り口近く。
大きな仕立て屋の軒先で、通りを挟んだ売り場と針子部屋をつなぐ廊下が二階部分にあり、小さなトンネルのようになっている場所だった。
夜の闇と建物の陰が重なり、自警団の持つ松明でもはっきりとはわからなかったが、男の頭部には黒い水たまりができている。
今夜、雨は降っていない。
「さがりなさい」
より詳しく周囲の状況を見ようとして上半身を乗り出したキールの動きを、ぴしゃりと封じる声があがった。
人払いに精を出していた若い女だった。
女は帯剣しており、今にも柄を握りそうな勢いでキールを睨んでいる。
彼女の威圧的な態度にキールは言いようもない怒りを覚えた。
これでは、神の権威を笠に着て刃を伴った脅迫を正当化しているようだ。
普段の彼であれば、軽く相手の機嫌でもとりながら友好的に接するところだったが、シノンとの話や『査察』のことで、自制できないくらい好戦的になっていた。
「そう、いきり立つなって」
キールはたっぷりと余裕を持って、ため息すらつきながらそう言った。
職業柄、話術には自信があった。
商人として客をその気にさせることもできれば、盗賊として相手の平静を欠くこともできる。
「……なんですって?」
乗ってきた。
彼は心のなかでほくそ笑んだ。
それまでキールを押し戻そうとしていた群衆が、巻き込まれることを恐れて彼の周囲に空隙を作る。
「勤勉なる者にはより多くの救いが与えられる、あんたの行動原理はそんなところか」
「……なにが言いたいのですか?」
こんな風に抵抗されたことはなかったのだろう。
女の表情には動揺が見え隠れしていたが、それでも毅然とした態度でキールに対峙する。
「でも、神はすべてに平等だ。神学校で習わなかったか?」
「……っ」
金具がかちかちと鳴る音が聞こえた。
挑発された女が怒りに震えているのだろう。
女は右足を踏み出し、剣の柄に手を触れた。
「なんだい?その手は」
「さがりなさい」
「怖くて足がすくんじまう。さがれないぜ?」
「さがれっ!」
金属の滑る嫌な音が聞こえる、と群衆が緊張を走らせた瞬間。
「なにをしているのです?リープフラウ」
白い法衣服に身を包んだ優男が女の背後に立った。
リープフラウと呼ばれた神官騎士は、ねじの切れた仕掛けのように硬直している。
「イェーガー司祭……」
イェーガーという司祭は剣も鎧も身に着けていない。
しかしその佇まいからキールは、自分の安い挑発に乗った小娘より厄介であることに気付いた。
彼は無意識に、いつでもその場から立ち去れるよう、または別の対処法を取れるよう足の筋肉を収縮させた。
男から視線を外さずに気配を探るが、シノンの助けは得られそうにはない。
「部下に失礼があったのならば謝ります。しかし、今は迷える子を父の御許へいざなうため、ここはお控えいただけませんか」
張り詰めた空気を解いたのはイェーガーのほうだった。
彼はリープフラウを自分の背後の押しやると、キールに向かって小さく頭を下げた。
「悪酔いしていたみたいだ。すまない」
キールも緊張を解いて頭を掻いた。
イェーガーは再度うやうやしく頭を下げると、リープフラウを伴ってその場から離れた。
去り際にリープフラウからの視線を感じたキールは振り向きざま彼女にウィンクして見せた。
松明の明かりに照らされた彼女の頬が紅潮している。
「もうやめとけ」
人ごみが疎らになったお陰で前方へやってきたシノンがキールをたしなめた。
倒れていた男はキールが見た限り、頭部からの流血しかわからなかったが、イェーガーの言葉から、既に死んでいるものと推測された。
マルベックではこういった事件が珍しいことではない。
金にまつわる諍い、ごろつきどもの喧嘩、痴情のもつれ、と枚挙に暇がない。
大方、国民に不利な財政のせいで首が回らなくなった者が金目当てに殺したのだろう。
そう結論付けたキールにシノンは肩をすくめて見せるだけだった。
家に帰ってもうまく眠れそうになかったキールはシノンを酒場へ誘ったが、彼は朝早くに子供を預けてしまいたい、という理由で帰ってしまった。
残されたキールはしばらく夜の街をうろついていたが、なんとなく興ざめしてしまい家路についた。
明日からまた店の経営について頭を悩ませなければならない。
家に置いてあった強い蒸留酒で眠気を呼び寄せ、彼はベッドに潜り込んだ。
キールはこのときの自分の懊悩が生やさしいものであったことを、翌日知ることになる。
【neme】 幻実
【about】 なんか書いてるよ、このひと
【caution!!】
※本サイトにおいて作成された作品の無断転載、配布、加工等は一切禁止いたします。
※未完成なサイトですが、なにかございましたらコメントなどにてお知らせください。
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