翌朝、ドアをけたたましくノックする音でキールは目覚めた。
昨夜寝る前に飲んだ蒸留酒のせいで、胃のなかには焼け石が入っているようだ。
彼はシーツをベッドから蹴り落とし、悪態をついて起き上がった。
その間にも絶え間なくノックの音、いや、なにかがぶつかり合う音がする。
木と木がぶつかる音、陶器や硝子が割れる音。
キールは咄嗟の判断でベッドの下にある細身の剣を帯び、摺り足で寝室を出た。
部屋を出た瞬間、彼は自分の目を疑った。
寝室兼書斎である部屋を出れば、そこは彼が一代で築いた雑貨屋の店内だ。
遥か東方より訪れた行商から買い付けた護符からランプの油にいたるまで、多種多様な品物がそれなりに整列されて並んでいる。
はずだった。
今はその店内には、粉砕した棚の木くずやら割れた薬瓶などが散乱している。
呆然とする彼の足もとで新たな犠牲となった薬瓶が、がちゃり、と割れた。
現実を直視したくない、と思いつつキールはやっとのことで顔を上げた。
そこでは大柄な男が思うままに店内を破壊していた。
棚に載ったものはすべて床に叩き落とし、棚の上にものがなくなると今度はその棚を壊す。
店はもはや営業できないほど壊されていたが、男はまだ飽き足らず商売に使えるものならすべて灰にしそうな勢いだった。
キールはもはや止める気にもならず、ぼんやりと男が自分の店を破壊する様を眺めていた。
「遅いお目覚めだな」
破壊活動にいそしむ男を満足気に見ながら、小柄な男がキールに声をかけた。
盗賊ギルドの集金人、カイユだった。
若い頃に忍び込んだ屋敷で手痛い反撃にあって右手を失い、地べたを這いつくばって許しを乞うたことから、陰で『地べた舐め』と呼ばれている。
盗賊としての仕事ができない代わりに、集金人としてはどんな手段を使ってでも金を回収することから、マルベック界隈の盗賊たちの評判はすこぶる悪い。
「いけないな。商売人は早起きしないと」
カイユが持っていた杖で、こん、と床を叩くと大男は破壊活動を止めキールのそばに立った。
「なんの冗談かな」
キールは勤めて冷静に訊ねた。
本音を言えば、この場で二人とも殺してしまいたい気分だったが、ギルドを敵に回す可能性もありうる。
「これが冗談に見えるか?」
カイユは肩をすくめて、破壊し尽くされた店内を示すように両腕を広げた。
「……」
「お前、ギルドになんか言うことあるんじゃないか?」
「金なら払ったはずだけどな」
カイユの回りくどい言い方にキールの声が僅かに固くなる。
「そういう問題じゃないんだなぁ」
カイユは彼の内心に気付いてか、ねぶるように顔を近付けながら言った。
「自分の胸に聞いてみなよ。昨日、どこで、なにしてたかぁあぁぁ」
ぺっ。
カイユの顔に唾がかかった。
「ケツの穴みてぇな口、近付けんじゃねぇよ」
キールは持っていた剣の柄を相手のみぞおちに力いっぱい突き立てた。
胃袋から空気を漏らしながらカイユは床にうずくまった。
「俺が昨日、どこで、なにをしていようが、あんたの知ったことじゃない」
次の瞬間、気配を感じてキールはしゃがみ込んだ。
頭上すれすれを大男の太い腕が掠める。
キールは鞘から刀身を抜き放つと、しゃがんだ姿勢のまま大男の腹部に剣の切っ先を突き付けた。
大男は動きを止める。
「あんた、いや、ギルドにはきっちり金を払ってるはずだ。つり上げは次の集金からって聞いてる。俺の店を滅茶苦茶にした理由はなんだ?」
キールの問いかけにカイユは苦痛の呻き声とも、笑い声ともつかない奇妙な声をあげる。
「お、お、おれ、俺に……手ぇあげたな。へへへへ」
「……なに?」
「ヴード殺しはてめえ、だ」
カイユの言葉を受けて動きを止めていた大男の手が腰袋に触れた。
しまった、とキールが思ったときには遅かった。
目に焼けるような痛みを感じて視界を閉ざすと同時に、胃を抉られるような感覚が襲う。
キールはたまらず剣を落とし、うつ伏せに倒れた。
目潰しだ。
キールは苦しみのなかで、自身の目を焼いたものが毒でないことを祈る。
「昨日の夜、マクロゥ通りで殺しがあったのは知ってるよな?」
カイユは身を起こすとよろけながら倒れたキールに近付き、彼の頭に足を乗せた。
「あの偏屈な魔術師とてめえが夜道でこそこそしてたのを見た奴がいるんだよ」
屈辱的な感触を味わいながらキールは自身の間抜けさを呪った。
ヴードは盗賊ギルドの集金人でキールには面識があった。
暗くて顔が見えなかったとはいっても、神官騎士とひと悶着起こしたこと、直前まで誰も訪れないシノンの家にいたことを考えれば、目撃した連中が彼を怪しむのも無理はない。
なにより時期が悪い。
皮肉にも昨夜キール自身が結論付けたように、自分が首の回らなくなった連中のひとり、と見られても仕方なかった。
加えて、今同じ集金人であるカイユに手を出すことは痛恨のミスと言えた。
彼の挑発はキールを犯人に仕立て上げるためのものだったのだ。
大方、犯人を見つけたものには多額の報酬でも出るのだろう。
カイユの性質からいって、真実はどうでもいいに決まっている。
「もう『万屋』のところにも仲間が行ってる。てめえが俺に手をあげたとなりゃ、事情を説明してもらう手間もねぇよなぁ」
粘着質な口調でカイユは言い終えるとキールの顔を蹴り上げた。
おいおい、ガキ連れじゃあ逃げらんねぇよ。
シノンと無邪気な子供の顔が浮かんで沈む。
キールの意識は暗転した。
気が付くとキールはベッドに寝かされていた。
自分の家ではない。
それよりも高くて、造りのしっかりとした天井。
彼は二、三度瞬きをして目の具合を確かめる。
窓からは優しい日差しが降り注ぐ。
違和感はない。
どうやらただの目潰しだったようだ。
シノンと子供。
安堵した瞬間、二人の顔が脳裏をよぎる。
彼は急いで起き上がった。
頭が鉛のように重たかったが、動けないほどではなかった。
キールはベッドから降りると忍び足で部屋を移動し、ドアを少し開けて外の様子を伺った。
部屋は廊下に面しており、廊下は先が見えないほど長い。
彼は廊下に延々と敷かれた質素な絨毯を見て、この建物が盗賊ギルドの屋敷であることに気付いた。
店を持つまでは幾度となく訪れたことがあり、彼が足を踏み入れるのは集会室くらいだったが、そこにも同じ絨毯が敷かれていた。
歓楽街の最奥にあり、表向きは娼館兼酒場として経営している。
自分がここにいる、ということはカイユの証言を鵜呑みにして、すぐにシノンらがどうこうされることはなさそうだ。
キールはそう判断してドアを閉めた。
鏡で自分の顔を確かめると右頬が腫れている以外に大した怪我はない。
当然のことながら剣や隠し持っていたナイフは回収されてしまったようだが、服も今朝起きたときと同じものだった。
彼はその場で何度か軽くステップを踏み、平衡感覚が戻っていることを確認すると部屋を出た。
壁伝いに滑るように移動しながら物陰を探す。
もしここがギルドの客間であれば、昼間は娼館の女たちがいるはずだ。
見つかって悲鳴でもあげられた日には面倒なことになる。
しかし、長い廊下を渡りきるまでに身を潜められそうな場所はなく、降り階段があるだけだった。
やみくもに動くのは危険であったが、話のわかる人間に自分とシノンが濡れ衣を着せられていることを早急に知らせる必要がある。
キールは素早く階段を降り切ると耳をすませて周囲の様子を探った。
近くの部屋から話し声が聞こえる。
さっきまで彼がいた部屋のちょうど真下近くに、他の部屋とは違う大きめな造りのドアがあり、そこから聞こえる声のようだった。
微かに開いたドアからそっとなかの様子を伺う。
室内では優雅にティーカップをくゆらせながら、シノンと盗賊ギルドの長ロングヴィルがなにやら話し合っていた。
「おお、起きたのか」
気配に気付いたのか、ロングヴィルが部屋の入り口に向かって手を上げる。
「……なに、してる?」
「ああ、万屋がきてくれたからな。昨夜のことを聞いてたところだ」
「いえ、長。今のはあんたに聞いたんじゃない。おい、そこで紅茶啜ってるお前だよ」
キールは折角回復した平衡感覚が再び失われていく気がしてシノンを指差した。
当の本人は何食わぬ顔をして紅茶をひとくち飲んだ。
「朝、子供を神殿に引き渡して家に戻ったら物騒な連中がうろついていたんでね。直接話のわかる人間の場所にきた」
「お前なぁ」と言いかけてキールは止めた。
よしんばシノンがキールになにかしらの方法で伝えたとしても、彼の店がカイユによって壊されることは避けられなかっただろう。
「それで?俺への濡れ衣はなくなったのかい」
疲れ果てた、といった顔をしたキールの質問には応えず、代わりにロングヴィルが宥めるように言う。
「カイユのやり方にはもう飽き飽きしている。奴には相応の報いを与えるつもりだ。それとお前の店にも可能な限り便宜を図ろう」
「しかし」と言って彼は頭痛持ちのように指をこめかみへ当てた。
「うかつだったな、キール。もう少し用心深いと思ってた」
「……?」
「今回の件、俺は疑っちゃいないが、他の連中はお前らが犯人だと信じきってる」
「な……」
キールは絶句する。
自分がこうして介抱され、シノンが招き入れられているのに解せなかった。
「目撃証言が誤解を招くようなことばかりだからな。まあ、とりあえず調査中ってことにしといたが、危ないぞ」
ロングヴィルは椅子から立ち上がり棚のなかから酒を取り出し、栓を開けて琥珀色の液体をティーカップに少し注いだ。
部屋じゅうに干し葡萄のような芳醇な香りが広がる。
きっとキールやシノンの稼ぎでは買おうなんて考えるにも及ばない上等な酒なのだろう。
「小娘つかまえてじゃれ合うくらいだったら、落ち着いて状況を把握するべきだったな」
痛いところをつかれてキールは押し黙った。
「俺たちがいるこの世界において、仲間意識なんて希薄だ。裏切り、蹴落とし、詐欺は当たり前だ」
ロングヴィルは椅子へ掛けなおし、カップに顔を近付け香りを楽しむと、シノンにも酒瓶を勧めたが彼は首を振った。
「だけどな、そういう奴らに限って仲間内で殺しがあると、仇討ちだなんだとお祭り騒ぎになる。みんな退屈してんのさ」
やれやれ、と彼はため息をついた。
「折も折、マルベックの、いやウィーネ諸国全体の流通レートがつり上がり、自治議会はどういうつもりかこの時期に『査察』を承諾しやがった」
「知ってたか?」と訊ねるロングヴィルにキールは頷いた。
「俺個人としちゃあ、すぐにでもお前たちから疑いを晴らしてやりたい。だけどな、これ以上薄っぺらい布袋にものを詰め込んだら破裂しちまう」
ロングヴィルが言わんとしていることはわかった。
つまり、昨夜の事件は欲求不満の溜まった盗賊ギルドの連中、恐らくは他の組合関係者もいるかもしれないが、彼らにとって恰好のネタになってしまったのだ。
同胞が殺されたことで共通の敵となりうる者へ鬱憤をぶちまけようとする輩、他人の不幸を食いものにする輩……そういった人間たちが寄り集まる。
そして今現在、最も安易に疑うことができるのは、現場で神官と小競り合いをした盗賊兼商人と普段の動向が知れない貧民窟に住まう奇人、この二人の青年だった。
「踏んだり蹴ったりだ」
「……同情する」
壁に寄り掛かって天を仰いだキールを見て、ロングヴィルはやりきれない気持ちになった。
ロングヴィルがマルベックの盗賊ギルドの長になったのは、キールが自分の店を持つようになって少し経ってからだった。
先代は豪放磊落な性質(たち)で面倒見が良かったため、カイユのような人間がのさばる原因にもなったのだが、周囲に惜しまれつつ病死した。
跡を継いだロングヴィルは技量、交渉術ともにこの街で光と闇を往き来するには充分なものを持っていたが、細身の身体と繊細な顔つきが性格にも表れており、デスぺラードな連中をいまいち御しきれずにいた。
力で抑えつける方法を彼は取れない。
今回のキールたちのように犠牲にしなければならない者を見るのは心苦しいが、だからこそ今までギルドの長としての務めを果たしてこられたという自負もある。
そして彼は犠牲にする者に対しても、必ずチャンスを与える。
「だが、いつまでもこのままじゃ済まない。そうだろ?」
気を取り直してロングヴィルは二人をティーカップで差した。
「……ひょっとして、ヴードを殺した犯人を自分たちの手であげてこいって、そういう話か?」
ロングヴィルは壮年の男性らしい余裕を漂わせ、そのひと言を待っていたとばかりに微笑んだ。
「話が早くて助かる」
彼は懐から鍵を取り出し、キールに投げてよこした。
「歓楽街に『カッツェ』って名前の娼館がある。裏口の鍵だ。情報交換とか必要なものの受け渡しはそこでやる。俺が協力していることを表沙汰にできねぇからな。シノンには迷惑をかけるが……」
と言いかけてロングヴィルが偏屈な魔術師を見遣る。
「俺は今の暮らしを維持できれば、それでいい」
シノンは彼の視線を受けて面白くなさそうに言った。
「というわけだ。健闘を祈る」
話は終わったとばかりに彼は席を立つ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
キールは慌てて彼が部屋から出られないよう、ドアの前で両手を広げた。
「どこで寝泊まりすりゃいい?あんたもさっき言ったろう、危ないぞって」
二人がこれから用心するのは、夜に紛れて動くことを常としている盗賊たちだ。
血気盛んな若い連中が噂を鵜呑みにして、正義感とでも仁義とでも言おうか、そういった厄介な集団心理でキールたちを襲わないとは限らない。
なにより、彼の家は今朝手酷く荒らされたばかりだ。
キールとしては、下手な場所での寝泊まりは遠慮したかった。
「ああ、それなら心配ない」
ロングヴィルはキールの肩に、ぽん、と手を置くと。
「ちゃんと守ってもらえよ」
悪戯っぽく笑って部屋から出て行ってしまった。
意味がわからない、といった顔をしたキールを見てシノンはなにやら笑いを堪えていた。
肩をすくめたキールだったが、シノンとロングヴィルの笑みの理由を、彼はすぐに知ることとなる。
「……」
身支度を整え屋敷から出るとキールは唖然とした。
でもそれは相手にとっても同じだった。
「ど、どうして……」
彼の姿を目にした女は喉から絞り出すように言った。
そこには昨夜キールがからかったリープフラウという神官騎士と、その上官であるらしいイェーガー司祭が立っていた。
「昨夜は失礼しました」
イェーガーは柔和な笑みを浮かべて二人に会釈した。
「話が見えないんだが……」
「ロングヴィル氏から説明を受けていないのですか?」
「なにも聞いてないぞ」
キールはこの際、彼の背後でぼんやりと突っ立っている魔術師には確認しなかった。
「それでは説明いたします。私たちはあなたがたを保護するため、また事件の調査協力を要請するために馳せ参じました」
朗々たる声で美丈夫然とした聖職者は語った。
『守ってもらえ』ってそういう意味かよ。
キールは今すぐに踵を返し、ロングヴィルを殴りに行かなかったことを自画自賛したい気持ちでいっぱいだった。
「おーい、すずちゃん」
店長に呼ばれて私はディスプレイ用の冷蔵庫から上半身を出した。
掃除というのは、どうしてこう、やり始めるとあちこち気になりだしてしまうのだろう。
『ざっと埃を払うくらいでいいよ』
いえいえ、店長。
よく見たら送風口にはキャラメルだの、ナッツ類だののカスがありますし、端のガラスにはクリームが干からびてくっついてます。
きゃつらを掃討せずして、私の使命は終われない……!!
そして気がついたら、この時間である。
時計の短針は西を差している。
「遅くまでありがとうね」
「いえ、なんか夢中になっちゃって」
「はは、すずちゃんらしいというか……あがる前にこれでも飲んで」
店長は困ったように笑ってテーブルの上にコーヒーを置いてくれた。
「ありがとうございます」
私はすっかり冷えてしまった手をあたためるように、湯気と良い香りのたつカップを両手で包んだ。
店長は今年四十五歳になるらしい。
眼鏡紳士っていう言葉がこれほどしっくりくる人も、そうはいないだろう。
いつも清潔なコックスーツに身を包み、お客さんと接するときは目を細めて笑う。
だけど、ケーキの生地を焼くときだけはちょっと怖いくらいに真剣な目をする。
私がこのケーキ屋さんでアルバイトをするようになってからもう半年になる。
成績にうるさい両親を説き伏せ、お小遣い稼ぎに始めたことだけれど、いつの間にかこのお店そのものに愛着が湧いてしまった。
住宅街にある小さなケーキ屋さんはお母さんの行きつけで、雑誌にも何度か載ったことのある隠れ家的なお店だ。
店内はテイクアウトの他に五席だけイートインスペースもあり、土日の昼間は結構いそがしい。
欧州の田舎町にあるような感じ、という店長のコンセプトは見事に表現されている。
どこか包まれるような優しさを感じる店内には、いくらでも長居できてしまう。
なにより、ケーキが美味しい。
どれくらい美味しいかというと……
体重計に乗るのが怖くなったくらい。
とでも言っておこう。
そんなことだから、私はここで働いていると時間の経過を忘れてしまう。
「一生懸命やってくれるのは嬉しいけど、親御さんに心配させてしまうからね」
私は「いやぁ」とか言いながら頬を掻く。
「それに」
店長はそこで言葉を切ると、入り口ドアの横にある大きな窓ガラスを指差した。
「彼氏も心配してるみたいだよ」
通りを挟んだバス停のベンチで、うずくまるように座っている人影がひとつ。
孝介だった。
私は顔に血が昇るのを感じつつ、まだ熱いコーヒーを慌てて飲み干す。
熱くて身体がぎゅっと縮まる感じ。
店長はそんな私を見てからかうように笑う。
「そ、それじゃ、お疲れさまでしたっ」
私は身支度もそこそこに店を出た。
外に出ると身体を包む空気は一変して、ひんやりと冷たい。
もっとも、今の私にとっては心地良いくらいだったけど。
車がきていないことを確認して、通りを横断する。
急いでいる自分が、ちょっと悔しい。
孝介はバス停の灯りで分厚い参考書を読んでいた。
「よう、お疲れ」
足音に気付いて孝介は顔を上げた。
「ん」
私はわざとそっけなく応える。
「じゃ、帰るか」
孝介はそんな私の反応になんら不満を抱くこともなく、ぱたん、と音をたてて参考書を閉じた。
私が推薦を取った大学と同じ大学名が、そこには記されていた。
孝介がこぐ自転車の後ろに立って風を切る。
どれくらい前からあの場所にいたのか、彼の両肩は冷え切っていた。
「ねえ」
「んー?」
「いつも迎えにきてくんなくても、いいよ」
「んー」
「これからどんどん寒くなるし」
「んー」
「あんなところにずっといたら、風邪ひいちゃうじゃない」
「んー」
私は風に吹かれて髪の毛がぼさぼさになっている彼の頭をはたいた。
「ちょっと!話聞いてる?」
「いってえな、なにすんだよ」
急にブレーキをかけられたので、私はバランスを崩し、孝介を背中から抱きしめるような体勢になってしまった。
本当に冷たい。
芯から冷えている、っていうのはこういうことを言うのだろうか。
「い、い、い、いきなり、停まんないでよっ!」
ふと気付いて、私は慌てて彼の背中から離れた。
「ちゃりこいでる人間の頭をはたく奴があるか!」
孝介は振り向いて文句を言った。
街灯に照らされた頬が赤い。
彼も恥ずかしかったんだと思うと、ちょっと意地悪な気持ちになる。
「すけべ」
「は?なにが」
「わざと急ブレーキかけたんでしょ」
「ちげーよ!なにバカなこと言ってんだよ!」
むきになって返してくるところが彼らしい。
「そうか、そうか。孝介はそうやってさりげなく女子の身体に触るんだぁ」
いじりすぎたのか、孝介は「付き合ってらんね」と言って自転車に跨ろうとした。
私は思い切ってそんな彼の腕を絡めとる。
「ね、歩かない?」
腕もやっぱり冷たかった。
自転車を引っ張る孝介と並んで歩く。
冬の夜空は透過度が高い。
こうやって見上げると、私たちはこんなにもたくさんの星に囲まれているのだと気付かされる。
「ねえ、さっきの話」
「え?」
「迎えにこなくていいよって」
「ああ」
「大事な時期じゃん?本番になって風邪ひいたら元も子もないよ」
「平気だよ」
予想通りの応えが返ってきたので、私は孝介の手を取った。
「平気じゃないよ。こんなに冷たいじゃん」
二人とも足を止める。
午後九時過ぎの住宅街は静かだ。
人が住んでいるのかわからなくなるくらいに、静かだ。
まるで、今の時間だけは夜空に瞬く星たちへ舞台を譲っているかのように。
「私、孝介と同じ大学に行きたいよ」
普段ならこんなこと、言うガラじゃない。
どうせあんたみたいな低脳には無理よ、なんて憎まれ口ばっかり叩いているけど。
推薦が決まってアルバイトにいそしむ私を毎晩迎えにきてくれる、受験生の孝介。
正直、嬉しい。
嬉しいけれど……。
彼の体温を感じて、私は不安になったのだ。
「うにゃっ?」
突然ほっぺたを引っ張られ、私は素っ頓狂な声をあげた。
「おい、なんか悪いモンでも食った?」
孝介が訝しげに私の顔を覗き込む。
「あんたねぇ……!」
本気で心配してんのに!
私は思わずカッとなって孝介を睨みつける。
でも次の瞬間。
「ありがとな、心配してくれて」
照れ臭そうに鼻の頭を掻いた彼を見て、私は何も言えなくなってしまう。
「大丈夫。絶対同じところに行く」
「孝介……」
「そんでもって、迎えにいくのも止めない」
「でも……」
「バカみたいだけど、離れてると何か起きそうで、怖いんだ」
胸の奥が、ちくり、と痛んだ。
「俺のことはいいんだ。お前が無事でいてくれれば」
どうしてか、そのとき。
私の頭のなかには、お父さんが酔っ払うと必ず歌うフォークソングの歌詞が浮かんでいた。
そうか。
『優しさが怖い』ってこういうことなのか。
私は直感した。
きっと孝介は、こうやって自分を削りながら誰かを守る。
でも、削り切ってしまった後に、残るものは一体何なのだろう?
私だけが残るのだろうか?
それとも……
彼の支え無しには生きていけなくなってしまう、私?
「おーい」
いつの間にか孝介は先に歩き始めていた。
愛しさと不安を胸に抱いて、私は足を踏み出した。
【neme】 幻実
【about】 なんか書いてるよ、このひと
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