「おーい、すずちゃん」
店長に呼ばれて私はディスプレイ用の冷蔵庫から上半身を出した。
掃除というのは、どうしてこう、やり始めるとあちこち気になりだしてしまうのだろう。
『ざっと埃を払うくらいでいいよ』
いえいえ、店長。
よく見たら送風口にはキャラメルだの、ナッツ類だののカスがありますし、端のガラスにはクリームが干からびてくっついてます。
きゃつらを掃討せずして、私の使命は終われない……!!
そして気がついたら、この時間である。
時計の短針は西を差している。
「遅くまでありがとうね」
「いえ、なんか夢中になっちゃって」
「はは、すずちゃんらしいというか……あがる前にこれでも飲んで」
店長は困ったように笑ってテーブルの上にコーヒーを置いてくれた。
「ありがとうございます」
私はすっかり冷えてしまった手をあたためるように、湯気と良い香りのたつカップを両手で包んだ。
店長は今年四十五歳になるらしい。
眼鏡紳士っていう言葉がこれほどしっくりくる人も、そうはいないだろう。
いつも清潔なコックスーツに身を包み、お客さんと接するときは目を細めて笑う。
だけど、ケーキの生地を焼くときだけはちょっと怖いくらいに真剣な目をする。
私がこのケーキ屋さんでアルバイトをするようになってからもう半年になる。
成績にうるさい両親を説き伏せ、お小遣い稼ぎに始めたことだけれど、いつの間にかこのお店そのものに愛着が湧いてしまった。
住宅街にある小さなケーキ屋さんはお母さんの行きつけで、雑誌にも何度か載ったことのある隠れ家的なお店だ。
店内はテイクアウトの他に五席だけイートインスペースもあり、土日の昼間は結構いそがしい。
欧州の田舎町にあるような感じ、という店長のコンセプトは見事に表現されている。
どこか包まれるような優しさを感じる店内には、いくらでも長居できてしまう。
なにより、ケーキが美味しい。
どれくらい美味しいかというと……
体重計に乗るのが怖くなったくらい。
とでも言っておこう。
そんなことだから、私はここで働いていると時間の経過を忘れてしまう。
「一生懸命やってくれるのは嬉しいけど、親御さんに心配させてしまうからね」
私は「いやぁ」とか言いながら頬を掻く。
「それに」
店長はそこで言葉を切ると、入り口ドアの横にある大きな窓ガラスを指差した。
「彼氏も心配してるみたいだよ」
通りを挟んだバス停のベンチで、うずくまるように座っている人影がひとつ。
孝介だった。
私は顔に血が昇るのを感じつつ、まだ熱いコーヒーを慌てて飲み干す。
熱くて身体がぎゅっと縮まる感じ。
店長はそんな私を見てからかうように笑う。
「そ、それじゃ、お疲れさまでしたっ」
私は身支度もそこそこに店を出た。
外に出ると身体を包む空気は一変して、ひんやりと冷たい。
もっとも、今の私にとっては心地良いくらいだったけど。
車がきていないことを確認して、通りを横断する。
急いでいる自分が、ちょっと悔しい。
孝介はバス停の灯りで分厚い参考書を読んでいた。
「よう、お疲れ」
足音に気付いて孝介は顔を上げた。
「ん」
私はわざとそっけなく応える。
「じゃ、帰るか」
孝介はそんな私の反応になんら不満を抱くこともなく、ぱたん、と音をたてて参考書を閉じた。
私が推薦を取った大学と同じ大学名が、そこには記されていた。
孝介がこぐ自転車の後ろに立って風を切る。
どれくらい前からあの場所にいたのか、彼の両肩は冷え切っていた。
「ねえ」
「んー?」
「いつも迎えにきてくんなくても、いいよ」
「んー」
「これからどんどん寒くなるし」
「んー」
「あんなところにずっといたら、風邪ひいちゃうじゃない」
「んー」
私は風に吹かれて髪の毛がぼさぼさになっている彼の頭をはたいた。
「ちょっと!話聞いてる?」
「いってえな、なにすんだよ」
急にブレーキをかけられたので、私はバランスを崩し、孝介を背中から抱きしめるような体勢になってしまった。
本当に冷たい。
芯から冷えている、っていうのはこういうことを言うのだろうか。
「い、い、い、いきなり、停まんないでよっ!」
ふと気付いて、私は慌てて彼の背中から離れた。
「ちゃりこいでる人間の頭をはたく奴があるか!」
孝介は振り向いて文句を言った。
街灯に照らされた頬が赤い。
彼も恥ずかしかったんだと思うと、ちょっと意地悪な気持ちになる。
「すけべ」
「は?なにが」
「わざと急ブレーキかけたんでしょ」
「ちげーよ!なにバカなこと言ってんだよ!」
むきになって返してくるところが彼らしい。
「そうか、そうか。孝介はそうやってさりげなく女子の身体に触るんだぁ」
いじりすぎたのか、孝介は「付き合ってらんね」と言って自転車に跨ろうとした。
私は思い切ってそんな彼の腕を絡めとる。
「ね、歩かない?」
腕もやっぱり冷たかった。
自転車を引っ張る孝介と並んで歩く。
冬の夜空は透過度が高い。
こうやって見上げると、私たちはこんなにもたくさんの星に囲まれているのだと気付かされる。
「ねえ、さっきの話」
「え?」
「迎えにこなくていいよって」
「ああ」
「大事な時期じゃん?本番になって風邪ひいたら元も子もないよ」
「平気だよ」
予想通りの応えが返ってきたので、私は孝介の手を取った。
「平気じゃないよ。こんなに冷たいじゃん」
二人とも足を止める。
午後九時過ぎの住宅街は静かだ。
人が住んでいるのかわからなくなるくらいに、静かだ。
まるで、今の時間だけは夜空に瞬く星たちへ舞台を譲っているかのように。
「私、孝介と同じ大学に行きたいよ」
普段ならこんなこと、言うガラじゃない。
どうせあんたみたいな低脳には無理よ、なんて憎まれ口ばっかり叩いているけど。
推薦が決まってアルバイトにいそしむ私を毎晩迎えにきてくれる、受験生の孝介。
正直、嬉しい。
嬉しいけれど……。
彼の体温を感じて、私は不安になったのだ。
「うにゃっ?」
突然ほっぺたを引っ張られ、私は素っ頓狂な声をあげた。
「おい、なんか悪いモンでも食った?」
孝介が訝しげに私の顔を覗き込む。
「あんたねぇ……!」
本気で心配してんのに!
私は思わずカッとなって孝介を睨みつける。
でも次の瞬間。
「ありがとな、心配してくれて」
照れ臭そうに鼻の頭を掻いた彼を見て、私は何も言えなくなってしまう。
「大丈夫。絶対同じところに行く」
「孝介……」
「そんでもって、迎えにいくのも止めない」
「でも……」
「バカみたいだけど、離れてると何か起きそうで、怖いんだ」
胸の奥が、ちくり、と痛んだ。
「俺のことはいいんだ。お前が無事でいてくれれば」
どうしてか、そのとき。
私の頭のなかには、お父さんが酔っ払うと必ず歌うフォークソングの歌詞が浮かんでいた。
そうか。
『優しさが怖い』ってこういうことなのか。
私は直感した。
きっと孝介は、こうやって自分を削りながら誰かを守る。
でも、削り切ってしまった後に、残るものは一体何なのだろう?
私だけが残るのだろうか?
それとも……
彼の支え無しには生きていけなくなってしまう、私?
「おーい」
いつの間にか孝介は先に歩き始めていた。
愛しさと不安を胸に抱いて、私は足を踏み出した。
【neme】 幻実
【about】 なんか書いてるよ、このひと
【caution!!】
※本サイトにおいて作成された作品の無断転載、配布、加工等は一切禁止いたします。
※未完成なサイトですが、なにかございましたらコメントなどにてお知らせください。
Powered by "Samurai Factory"

