翌朝、ドアをけたたましくノックする音でキールは目覚めた。
昨夜寝る前に飲んだ蒸留酒のせいで、胃のなかには焼け石が入っているようだ。
彼はシーツをベッドから蹴り落とし、悪態をついて起き上がった。
その間にも絶え間なくノックの音、いや、なにかがぶつかり合う音がする。
木と木がぶつかる音、陶器や硝子が割れる音。
キールは咄嗟の判断でベッドの下にある細身の剣を帯び、摺り足で寝室を出た。
部屋を出た瞬間、彼は自分の目を疑った。
寝室兼書斎である部屋を出れば、そこは彼が一代で築いた雑貨屋の店内だ。
遥か東方より訪れた行商から買い付けた護符からランプの油にいたるまで、多種多様な品物がそれなりに整列されて並んでいる。
はずだった。
今はその店内には、粉砕した棚の木くずやら割れた薬瓶などが散乱している。
呆然とする彼の足もとで新たな犠牲となった薬瓶が、がちゃり、と割れた。
現実を直視したくない、と思いつつキールはやっとのことで顔を上げた。
そこでは大柄な男が思うままに店内を破壊していた。
棚に載ったものはすべて床に叩き落とし、棚の上にものがなくなると今度はその棚を壊す。
店はもはや営業できないほど壊されていたが、男はまだ飽き足らず商売に使えるものならすべて灰にしそうな勢いだった。
キールはもはや止める気にもならず、ぼんやりと男が自分の店を破壊する様を眺めていた。
「遅いお目覚めだな」
破壊活動にいそしむ男を満足気に見ながら、小柄な男がキールに声をかけた。
盗賊ギルドの集金人、カイユだった。
若い頃に忍び込んだ屋敷で手痛い反撃にあって右手を失い、地べたを這いつくばって許しを乞うたことから、陰で『地べた舐め』と呼ばれている。
盗賊としての仕事ができない代わりに、集金人としてはどんな手段を使ってでも金を回収することから、マルベック界隈の盗賊たちの評判はすこぶる悪い。
「いけないな。商売人は早起きしないと」
カイユが持っていた杖で、こん、と床を叩くと大男は破壊活動を止めキールのそばに立った。
「なんの冗談かな」
キールは勤めて冷静に訊ねた。
本音を言えば、この場で二人とも殺してしまいたい気分だったが、ギルドを敵に回す可能性もありうる。
「これが冗談に見えるか?」
カイユは肩をすくめて、破壊し尽くされた店内を示すように両腕を広げた。
「……」
「お前、ギルドになんか言うことあるんじゃないか?」
「金なら払ったはずだけどな」
カイユの回りくどい言い方にキールの声が僅かに固くなる。
「そういう問題じゃないんだなぁ」
カイユは彼の内心に気付いてか、ねぶるように顔を近付けながら言った。
「自分の胸に聞いてみなよ。昨日、どこで、なにしてたかぁあぁぁ」
ぺっ。
カイユの顔に唾がかかった。
「ケツの穴みてぇな口、近付けんじゃねぇよ」
キールは持っていた剣の柄を相手のみぞおちに力いっぱい突き立てた。
胃袋から空気を漏らしながらカイユは床にうずくまった。
「俺が昨日、どこで、なにをしていようが、あんたの知ったことじゃない」
次の瞬間、気配を感じてキールはしゃがみ込んだ。
頭上すれすれを大男の太い腕が掠める。
キールは鞘から刀身を抜き放つと、しゃがんだ姿勢のまま大男の腹部に剣の切っ先を突き付けた。
大男は動きを止める。
「あんた、いや、ギルドにはきっちり金を払ってるはずだ。つり上げは次の集金からって聞いてる。俺の店を滅茶苦茶にした理由はなんだ?」
キールの問いかけにカイユは苦痛の呻き声とも、笑い声ともつかない奇妙な声をあげる。
「お、お、おれ、俺に……手ぇあげたな。へへへへ」
「……なに?」
「ヴード殺しはてめえ、だ」
カイユの言葉を受けて動きを止めていた大男の手が腰袋に触れた。
しまった、とキールが思ったときには遅かった。
目に焼けるような痛みを感じて視界を閉ざすと同時に、胃を抉られるような感覚が襲う。
キールはたまらず剣を落とし、うつ伏せに倒れた。
目潰しだ。
キールは苦しみのなかで、自身の目を焼いたものが毒でないことを祈る。
「昨日の夜、マクロゥ通りで殺しがあったのは知ってるよな?」
カイユは身を起こすとよろけながら倒れたキールに近付き、彼の頭に足を乗せた。
「あの偏屈な魔術師とてめえが夜道でこそこそしてたのを見た奴がいるんだよ」
屈辱的な感触を味わいながらキールは自身の間抜けさを呪った。
ヴードは盗賊ギルドの集金人でキールには面識があった。
暗くて顔が見えなかったとはいっても、神官騎士とひと悶着起こしたこと、直前まで誰も訪れないシノンの家にいたことを考えれば、目撃した連中が彼を怪しむのも無理はない。
なにより時期が悪い。
皮肉にも昨夜キール自身が結論付けたように、自分が首の回らなくなった連中のひとり、と見られても仕方なかった。
加えて、今同じ集金人であるカイユに手を出すことは痛恨のミスと言えた。
彼の挑発はキールを犯人に仕立て上げるためのものだったのだ。
大方、犯人を見つけたものには多額の報酬でも出るのだろう。
カイユの性質からいって、真実はどうでもいいに決まっている。
「もう『万屋』のところにも仲間が行ってる。てめえが俺に手をあげたとなりゃ、事情を説明してもらう手間もねぇよなぁ」
粘着質な口調でカイユは言い終えるとキールの顔を蹴り上げた。
おいおい、ガキ連れじゃあ逃げらんねぇよ。
シノンと無邪気な子供の顔が浮かんで沈む。
キールの意識は暗転した。
気が付くとキールはベッドに寝かされていた。
自分の家ではない。
それよりも高くて、造りのしっかりとした天井。
彼は二、三度瞬きをして目の具合を確かめる。
窓からは優しい日差しが降り注ぐ。
違和感はない。
どうやらただの目潰しだったようだ。
シノンと子供。
安堵した瞬間、二人の顔が脳裏をよぎる。
彼は急いで起き上がった。
頭が鉛のように重たかったが、動けないほどではなかった。
キールはベッドから降りると忍び足で部屋を移動し、ドアを少し開けて外の様子を伺った。
部屋は廊下に面しており、廊下は先が見えないほど長い。
彼は廊下に延々と敷かれた質素な絨毯を見て、この建物が盗賊ギルドの屋敷であることに気付いた。
店を持つまでは幾度となく訪れたことがあり、彼が足を踏み入れるのは集会室くらいだったが、そこにも同じ絨毯が敷かれていた。
歓楽街の最奥にあり、表向きは娼館兼酒場として経営している。
自分がここにいる、ということはカイユの証言を鵜呑みにして、すぐにシノンらがどうこうされることはなさそうだ。
キールはそう判断してドアを閉めた。
鏡で自分の顔を確かめると右頬が腫れている以外に大した怪我はない。
当然のことながら剣や隠し持っていたナイフは回収されてしまったようだが、服も今朝起きたときと同じものだった。
彼はその場で何度か軽くステップを踏み、平衡感覚が戻っていることを確認すると部屋を出た。
壁伝いに滑るように移動しながら物陰を探す。
もしここがギルドの客間であれば、昼間は娼館の女たちがいるはずだ。
見つかって悲鳴でもあげられた日には面倒なことになる。
しかし、長い廊下を渡りきるまでに身を潜められそうな場所はなく、降り階段があるだけだった。
やみくもに動くのは危険であったが、話のわかる人間に自分とシノンが濡れ衣を着せられていることを早急に知らせる必要がある。
キールは素早く階段を降り切ると耳をすませて周囲の様子を探った。
近くの部屋から話し声が聞こえる。
さっきまで彼がいた部屋のちょうど真下近くに、他の部屋とは違う大きめな造りのドアがあり、そこから聞こえる声のようだった。
微かに開いたドアからそっとなかの様子を伺う。
室内では優雅にティーカップをくゆらせながら、シノンと盗賊ギルドの長ロングヴィルがなにやら話し合っていた。
「おお、起きたのか」
気配に気付いたのか、ロングヴィルが部屋の入り口に向かって手を上げる。
「……なに、してる?」
「ああ、万屋がきてくれたからな。昨夜のことを聞いてたところだ」
「いえ、長。今のはあんたに聞いたんじゃない。おい、そこで紅茶啜ってるお前だよ」
キールは折角回復した平衡感覚が再び失われていく気がしてシノンを指差した。
当の本人は何食わぬ顔をして紅茶をひとくち飲んだ。
「朝、子供を神殿に引き渡して家に戻ったら物騒な連中がうろついていたんでね。直接話のわかる人間の場所にきた」
「お前なぁ」と言いかけてキールは止めた。
よしんばシノンがキールになにかしらの方法で伝えたとしても、彼の店がカイユによって壊されることは避けられなかっただろう。
「それで?俺への濡れ衣はなくなったのかい」
疲れ果てた、といった顔をしたキールの質問には応えず、代わりにロングヴィルが宥めるように言う。
「カイユのやり方にはもう飽き飽きしている。奴には相応の報いを与えるつもりだ。それとお前の店にも可能な限り便宜を図ろう」
「しかし」と言って彼は頭痛持ちのように指をこめかみへ当てた。
「うかつだったな、キール。もう少し用心深いと思ってた」
「……?」
「今回の件、俺は疑っちゃいないが、他の連中はお前らが犯人だと信じきってる」
「な……」
キールは絶句する。
自分がこうして介抱され、シノンが招き入れられているのに解せなかった。
「目撃証言が誤解を招くようなことばかりだからな。まあ、とりあえず調査中ってことにしといたが、危ないぞ」
ロングヴィルは椅子から立ち上がり棚のなかから酒を取り出し、栓を開けて琥珀色の液体をティーカップに少し注いだ。
部屋じゅうに干し葡萄のような芳醇な香りが広がる。
きっとキールやシノンの稼ぎでは買おうなんて考えるにも及ばない上等な酒なのだろう。
「小娘つかまえてじゃれ合うくらいだったら、落ち着いて状況を把握するべきだったな」
痛いところをつかれてキールは押し黙った。
「俺たちがいるこの世界において、仲間意識なんて希薄だ。裏切り、蹴落とし、詐欺は当たり前だ」
ロングヴィルは椅子へ掛けなおし、カップに顔を近付け香りを楽しむと、シノンにも酒瓶を勧めたが彼は首を振った。
「だけどな、そういう奴らに限って仲間内で殺しがあると、仇討ちだなんだとお祭り騒ぎになる。みんな退屈してんのさ」
やれやれ、と彼はため息をついた。
「折も折、マルベックの、いやウィーネ諸国全体の流通レートがつり上がり、自治議会はどういうつもりかこの時期に『査察』を承諾しやがった」
「知ってたか?」と訊ねるロングヴィルにキールは頷いた。
「俺個人としちゃあ、すぐにでもお前たちから疑いを晴らしてやりたい。だけどな、これ以上薄っぺらい布袋にものを詰め込んだら破裂しちまう」
ロングヴィルが言わんとしていることはわかった。
つまり、昨夜の事件は欲求不満の溜まった盗賊ギルドの連中、恐らくは他の組合関係者もいるかもしれないが、彼らにとって恰好のネタになってしまったのだ。
同胞が殺されたことで共通の敵となりうる者へ鬱憤をぶちまけようとする輩、他人の不幸を食いものにする輩……そういった人間たちが寄り集まる。
そして今現在、最も安易に疑うことができるのは、現場で神官と小競り合いをした盗賊兼商人と普段の動向が知れない貧民窟に住まう奇人、この二人の青年だった。
「踏んだり蹴ったりだ」
「……同情する」
壁に寄り掛かって天を仰いだキールを見て、ロングヴィルはやりきれない気持ちになった。
ロングヴィルがマルベックの盗賊ギルドの長になったのは、キールが自分の店を持つようになって少し経ってからだった。
先代は豪放磊落な性質(たち)で面倒見が良かったため、カイユのような人間がのさばる原因にもなったのだが、周囲に惜しまれつつ病死した。
跡を継いだロングヴィルは技量、交渉術ともにこの街で光と闇を往き来するには充分なものを持っていたが、細身の身体と繊細な顔つきが性格にも表れており、デスぺラードな連中をいまいち御しきれずにいた。
力で抑えつける方法を彼は取れない。
今回のキールたちのように犠牲にしなければならない者を見るのは心苦しいが、だからこそ今までギルドの長としての務めを果たしてこられたという自負もある。
そして彼は犠牲にする者に対しても、必ずチャンスを与える。
「だが、いつまでもこのままじゃ済まない。そうだろ?」
気を取り直してロングヴィルは二人をティーカップで差した。
「……ひょっとして、ヴードを殺した犯人を自分たちの手であげてこいって、そういう話か?」
ロングヴィルは壮年の男性らしい余裕を漂わせ、そのひと言を待っていたとばかりに微笑んだ。
「話が早くて助かる」
彼は懐から鍵を取り出し、キールに投げてよこした。
「歓楽街に『カッツェ』って名前の娼館がある。裏口の鍵だ。情報交換とか必要なものの受け渡しはそこでやる。俺が協力していることを表沙汰にできねぇからな。シノンには迷惑をかけるが……」
と言いかけてロングヴィルが偏屈な魔術師を見遣る。
「俺は今の暮らしを維持できれば、それでいい」
シノンは彼の視線を受けて面白くなさそうに言った。
「というわけだ。健闘を祈る」
話は終わったとばかりに彼は席を立つ。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
キールは慌てて彼が部屋から出られないよう、ドアの前で両手を広げた。
「どこで寝泊まりすりゃいい?あんたもさっき言ったろう、危ないぞって」
二人がこれから用心するのは、夜に紛れて動くことを常としている盗賊たちだ。
血気盛んな若い連中が噂を鵜呑みにして、正義感とでも仁義とでも言おうか、そういった厄介な集団心理でキールたちを襲わないとは限らない。
なにより、彼の家は今朝手酷く荒らされたばかりだ。
キールとしては、下手な場所での寝泊まりは遠慮したかった。
「ああ、それなら心配ない」
ロングヴィルはキールの肩に、ぽん、と手を置くと。
「ちゃんと守ってもらえよ」
悪戯っぽく笑って部屋から出て行ってしまった。
意味がわからない、といった顔をしたキールを見てシノンはなにやら笑いを堪えていた。
肩をすくめたキールだったが、シノンとロングヴィルの笑みの理由を、彼はすぐに知ることとなる。
「……」
身支度を整え屋敷から出るとキールは唖然とした。
でもそれは相手にとっても同じだった。
「ど、どうして……」
彼の姿を目にした女は喉から絞り出すように言った。
そこには昨夜キールがからかったリープフラウという神官騎士と、その上官であるらしいイェーガー司祭が立っていた。
「昨夜は失礼しました」
イェーガーは柔和な笑みを浮かべて二人に会釈した。
「話が見えないんだが……」
「ロングヴィル氏から説明を受けていないのですか?」
「なにも聞いてないぞ」
キールはこの際、彼の背後でぼんやりと突っ立っている魔術師には確認しなかった。
「それでは説明いたします。私たちはあなたがたを保護するため、また事件の調査協力を要請するために馳せ参じました」
朗々たる声で美丈夫然とした聖職者は語った。
『守ってもらえ』ってそういう意味かよ。
キールは今すぐに踵を返し、ロングヴィルを殴りに行かなかったことを自画自賛したい気持ちでいっぱいだった。
「どうして神殿が盗賊ギルドの殺しに首を突っ込む?」
歓楽街から出て神殿へ向かう道すがら、キールは面倒くさそうに訊ねた。
本来、マルベックで事件が起こればそれは自警団と呼ばれる自治国家ならではの、旅商に雇われた用心棒(バウンサー)や流れ者の傭兵、そして国家から選出された者たちで組織された有志部隊が取り仕切る。
神殿はあくまで死傷者の対応や、事件の発端が宗教がらみであったときのみ、指揮権を有するはずだった。
リープフラウが彼に対しての反感を顕わにして黙っていたため、仕方ない、といった様子でイェーガーが答えた。
「昨夜の死体には、誰かに傷つけられた跡がありませんでした」
「……俺の見間違いじゃなけりゃ、頭の辺りに血溜まりがあったと思うんだが」
「ええ、おっしゃるとおりです。でもあれは自分でやったものです」
「なに?」
「遺体を室内に運んだとき、自警団のみなさんも我々も息を飲みましたよ。あれほどまでに苦悶の表情を浮かべたまま亡くなった方を、私は今まで見たことがありません」
イェーガーの説明によると、ヴードは戦慄の表情を浮かべ、なぜか自分で自分の顔じゅうを引っ掻いていたらしい。
目、鼻、口とあらゆる場所に切創や無数の擦過傷があり、指先にはこそぎ取った自身の肉片が大量に付着していた。
特に損傷が酷かったのは耳で、文字通り跡かたもなく潰れていた。
「しかし、顔の傷だけで絶命したとは考えられません。確かに出血は酷かったですが」
「つまり、どういうことなんだよ」
キールが少しじれたように言う。
「それをこれから、調べていただきます」
イェーガーは一行の最後尾を歩いているシノンを振り返った。
「呪詛や病魔の可能性があるとすれば、我々の祈り(プレイ)や讃歌(チャント)にて恩寵(サクラメント)を具現化できますが、それはありませんでした。となると……」
「魔力感応(センス・マジック)」
シノンがぼそり、とイェーガーの言葉を引き継ぐ。
「そうです」
「自警団が手を引いたのはそのせいか」
「まあ、八割がたそうでしょうね。彼らはあくまでバウンサーや傭兵の集団ですから、魔術や信仰による奇跡に長けている人材は少ない」
「解せないな」
「と、おっしゃると?」
「この街には俺以上に腕のたつ魔術師なんて、腐るほどいる。どうして俺なんだ?」
「ご謙遜を。『路地裏の万屋』」
イェーガーはシノンの二つ名を出して話を続ける。
「探知や鑑定の魔術への造詣が深く、仕事も丁寧だと聴く。私個人の意見ですが、魔術とは本来、人々の生活を豊かにし正しき方向へとその力を導くもの、と考えております。あなたの姿勢はまさにそれだ。多額の報酬でいかがわしい依頼を受ける他の魔術師たちよりも私はあなたのほうを評価します。それに……」
「悪いが、断る」
まだ続きそうだったイェーガーの長口上をシノンはばっさりと切り捨て、足を止めた。
「おいおい」
よく喋る司祭を庇うつもりはなかったが、キールは思わず口を出した。
「さっき長の話を聞いてなかったのか?こいつらに協力するなんて、気乗りしないのはわかるけどさ」
キールの言葉にリープフラウがなにか言おうとしてイェーガーに抑えられた。
よせばいいのに、キールは彼女を挑発するように嘲笑して見せる。
そんな彼らのやりとりには目もくれず、シノンは絞り出すような声で言った。
「気乗りする、しないの問題じゃない」
「じゃあ、なんだよ?」
「それは……」
言い淀むシノンにイェーガーが手を叩いて「ああ、そうでした」と言葉をかける。
「言い忘れてましたけど、魔術師ギルドの行使制限は本件の解決終了まで取り下げてもらっています」
「へえ、あんたたちにかかりゃ、なんでもありだな。黒羊もどうにかできんじゃねえか」
「あ、あなたはどうして……っ」
キールの入れた茶々にリープフラウは我慢し切れず、とうとう食いついた。
「よしなさい、二人とも」
イェーガーはため息をついて二人をいさめる。
これではまるで子供の引率だ、と彼は内心呆れた。
「でもまあ、良かったな。これで心おきなく動けるじゃないか」
「……」
キールは脳天気にシノンの背中を叩いたが、彼は頷きもしない。
その様子を見てイェーガーは、くすり、と笑った。
「それと、この件が終わるまで我々は全力であなたがたを保護します。あなたもいろいろと事情がおありのようですが、どうぞご心配なく」
イェーガーの言葉にシノンは息を飲んだ。
胡散臭い司祭の飄々とした表情からはなにも伺い知ることはできない。
しばらくシノンはイェーガーの顔を睨みつけていたが、ため息をついて肩をすくめ再び歩き出す。
「どういうこった?」
キールの質問に答えることもなく彼は黙々と歩き続けた。
神殿は質素ではあるがしっかりとした造りをしていて、重い両開きの入り口を開けるとすぐに礼拝堂へ通じる。
天井は大げさなくらいに高く、天窓からの採光によって周囲には神秘的な雰囲気が漂っていた。
いくつもの長椅子が並び、霞んで見えるほど奥にはマルベックで最も多くの人々が信仰している神の偶像と礼拝時に聖職者が立つ教壇がある。
室内はかなりの広さだったが、よく手入れが行き届いており塵ひとつ落ちていないようだった。
礼拝堂を横目に祭器室や謁見所を通り過ぎ、一行は暗く閉ざされた地下階へと進んだ。
地下階の床は大地がむき出しになっており、壁や柱は木製で、長い廊下に沿っていくつかの部屋があるらしくドアが並んでいた。
術的な仕掛けか建物の造りか、ひんやりとしており一定の間隔で置かれた灯からほんのりあたたかさを感じる態度だった。
暑い日であれば快適に過ごせそうな場所だったが、訪れる者は決して長居したいと思わないだろう。
冷たい空気にはカビや邪気を払う香の匂いに混じってどうにもごまかせない死臭が感じられたし、異様なほどの静寂(しじま)は生者の鼓動さえ飲み込んでしまいそうだった。
「お二人とも、これを」
目的の部屋の前でイェーガーはキールとシノンに、銀製のロザリオを渡した。
「信徒になれ、というわけではありません。着けておくことはあなたがたの身を守ることになるのです」
キールの口が歪んだのを見て、イェーガーはにこやかに先手を打ち彼の皮肉を封じた。
つまらなそうにロザリオを首にかけるキールを見て、リープフラウは上官を誇らしげに眺めた。
「この部屋にはなにかしら不自然な力によって死んだ者たちが眠っています。安置することによって解呪したり、様々な処置を行うわけですが、時折彷徨う魂が悪意を持って生者を襲うことがありますので」
寒気を誘うような軋みをたててドアが開く。
部屋は小さな酒場程度の広さで、なかには簡素な木の棺が並べられており腐敗を防ぐためか冷気が一段と強くなった。
もちろん、死臭もだ。
「それでは、さっそく」
先導するイェーガーが振り向いて頷くと、リープフラウが前へ進み出て最近できたばかりとわかる新しい棺の蓋を開けた。
イェーガーの話通り、ヴードの顔は傷だらけだった。
何かしらの処置を施したのか、表情だけは安らかに眠っているときのそれだったが、青白い皮膚や裂けた肉はこの男が既に死んでいることを如実に表していた。
リープフラウは遺体を曝したことが死者への冒涜とならぬよう手で印を切る。
キールがひとしきり遺体を確認し終えると、入れ替わりにシノンが前へ進み出た。
彼はなるべく遺体を見ないようにしながら、手早く準備を始めた。
懐から古びた紙切れを取り出し、遺体の顔に被せる。
紙切れはちょうど顔と同じくらいの大きさで、幾重にも重なり複雑な模様が描かれた円や、中心にリボンのような文字をあしらったヘキサグラムなどが書き込まれていた。
遺体の周りに黒い石や儀式用のなにかを置いて準備を終えると、彼は右手に小さなナイフを持ち、左手を遺体の顔にかざす。
魔術師が魔術を行使するとき、よほどの高等技術を持つ者でない限り、発動の媒体となるものが必要となる。
大抵は杖だったり、ロッドだったりするが、シノンの場合はシンプルな装飾のナイフを媒体としていた。
儀式や術式の途中で振りかざすこともあるので、刃物を使うのはあまりよろしくないのだが彼はナイフを使い続けていた。
精神集中のため、ひとつ息をついてから瞳を閉じる。
ややあって、静かな室内に朗々たる声が響いた。
キールは彼が呪文を詠唱する姿を何度か見たことがあるのでそうでもなかったが、普段の彼、または彼の噂を知る者が見たら驚くだろう。
イェーガーは感嘆し、リープフラウは目を見張っている。
それくらい、シノンは凛としていた。
偏屈、無口、緩慢と言われている男が、魔術を行使するときだけは躍動的だ。
まるでこの一瞬のために日々の力を温存しているかのように。
「……?」
シノンの詠唱と儀式が続く間に、遺体の周囲に置かれたものに変化が現れ始めた。
キールが近付いて確認すると、黒い石は崩れて砂のようになり、顔に被せられた紙切れには禍々しい光を放ちながら奇妙な模様が浮かび上がっている。
そして完全に文字列が浮かび上がったとき、シノンは詠唱を止めた。
「やはり、そうでしたか」
イェーガーが遺体に被さった紙切れを手に取った。
文字列は今や、もとからそこに記されていたかのように鮮明に表れている。
「なんて書いてあるんだ?」
覗き込んだキールが誰ともなく訊ねた。
「文字そのものに意味はありませんよ。一種のシンボルみたいなものです。この対象物、つまりは遺体に魔力の残滓があったということを示す、ね」
イェーガーがそれに応える。
「はっきりとわかります。やはり魔術的な力が原因、というわけですね。さすがは『路地裏の万屋』といったところ……」
嬉々としてシノンの顔を見たイェーガーだったが、すぐに険しい表情を見せる。
「リープフラウ、すぐに寝所の準備を」
「え?」
「いいから、早く!」
突然の命に戸惑うリープフラウであったが、イェーガーのただならぬ声に弾かれ部屋から出て行く。
事態が把握できずにシノンの顔を見たキールは固まった。
「お、おい!どうしたってんだよ……」
シノンの顔には苦悶の表情が浮かび、したたり落ちるほどの汗をかいていた。息も荒く立っているのがやっと、といった様子だ。
先ほどまであんなに強い光を宿していた瞳も、今はどんよりと曇っており、焦点が合っていない。
「おい、シノン!」
「……まったく、これだから……」
シノンは、ぼそり、と毒づいて糸の切れた人形のようにその場へ崩れ落ちた。
【neme】 幻実
【about】 なんか書いてるよ、このひと
【caution!!】
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